異常な家庭だった。
厳格にしつけるのが一番と思っている父親。私を理解しない母親(父親の顔色ばかりうかがう)。私に味方はいなかった。
愛を感じられない、与えてくれない人間だった。
いい点を取っても、褒められたことは全くない。まったく見返りのない生活。
これじゃ私は自分に存在価値を見いだせない。
だから余計頑張ろうと思った。この繰り返しを続けたらどうなるかわかりますよね?
何をするにも(子供らしい行動に対しても)父親の許可を取らなければならなかった。
食事時は悲惨だった。飯がのどを通らない状況だった。常に神経過敏だった。いわゆる会食恐怖症になった。
思えば、父親が遅く帰ってくる時、早く食事を終わらせて、食卓に一緒にあがりたくない一心だった。飯を「必死で」かき込んだ。
成績が悪かったり(それでも人よりいい点数を取っていた)、素行が悪い(子供なら誰でもすることでも)と罵倒されたり、こづかれた。
そんながんじがらめの抑圧をため続けていた。
完璧にやらなければ、完全にこなしていこう、この思考だけが高まった。
完璧にやればいつかきっと報われる日が来ると。
感情的な抑圧のはけ口もなかった。ぎゅうぎゅう押しつぶされていたのは私の感情だった。感情は解き放たれてこそ感情なのに。
対人恐怖の兆候は小学生時代は少なかった。ただただ父親と母親の監視の目にばかり気が言っていた。
ヒステリーを起こした母親は父親以上にある意味じゃ恐怖だった。最凶コンビの両親だった。
母親も父親に精神的に虐げられて報われることがない人生だったから、時々暴発してしまったのだろう。
そうやって必死で精神的なバランスを取ろうとしていたのだろう。
ヒステリーから立ち直った時の母親は思いの外優しくしてくれた。
彼女は彼女で抱えきれないストレスを溜めて生きていたのだ。
まったく父親は 人をうつ病にすることにかけては右に出るものはいない(笑)
どんなたくましい人間でも、子供の時にその家に放り込まれたら、うつ病患者ができあがる。
いかにしかられないようにするか、いかに愛情を与えてくれたり、褒められるようにするかばかり考えていた。そのためには失敗は許されない、完全にやるぞとなる。
それが中学に入ってからしばらく経つと、父親と母親に振り向いていた気が、クラスの女子生徒に向けられるようになった。
がちがちに緊張して、正常な思考がどこかに吹き飛んだ。
ただただ気にしすぎがエスカレートしていった。自意識がどんどん暴走していった。
相変わらず、家庭に戻ると、人間味が全くない父親のもとで暮らさなくちゃいけない。
学校も家庭も逃げ場がどんどんなくなっていった。
それでも、努力と完全主義が行きすぎたところもあったが、 いわゆるエリートコースを表向きは歩んでいた。
むしろ自己証明できる機会は学歴と試験だけだった。
死にものぐるいで勉強した。
それが自分の価値を証明できると信じて。
精神的な中身はもうボロボロだったが、幼児期からすり込まれた強迫観念が私にそうさせたのだろう。
そんな融通のきかない人間で、コミュニケーション能力も身についていなかったため、学生時代はよくいじめになった。
ひどいイジメではなかったが、とかくからかいの対象になった。仲間はずれにされた。鼻持ちならない人間だったのだろう。
これでは学校で不都合だということで、
私は道化として、彼らにそれでもついていこうと必死で、良く思われようと努力した。
笑いをとったり、また目立たないようにしたり。自分の行動と本心をごまかしてまで周囲に取り繕っていた。
家で自分を認めてもらえない上に、そんなことをやていたら自分が無くなる。
自己肯定なんかできるはずもなく、そんな自分にどんどん疲れはじめていた。
その一方で人には絶対に負けちゃダメだという信念があったから、人間関係以外ではとにかく努力しようとした。
今思うと、必死でアイデンティティを探していたんだろう。
建設的なプラスの感情が伴っていない努力だったから、アイデンティティや充足感なんて得られようがないのだが....
希望する大学に現役ではいることになった。父親からお褒めの言葉をもらえなかった。母親は喜んでくれた。というか安堵していた。
なぜかというと、私が志望大学に落ちたら、母親は父親やその親戚から白い眼で見られるからだ。
そのころから私は母親がかわいそうになってきた。
いつもどこか怯えていて、受け身の人生だった。
本当は私のことを素直に自然に愛したいのではないかと。しかしそれができない環境で私たちは暮らしていた。
私は内心父親の学歴を上回ることができてうれしかった。
あんなには勝ったぞと。だから褒めないんだと。
しかし、私は父親を見返すという究極の目的を達成してしまった。
学生時代私は何をすればいいのか空虚な気持になった。
不眠症が始まったのもそのころだった。
建設的なプラスの感情で生きていない人間が陥る罠だった。
抑圧が溜まり続けた状態で結果を出しても、心はむなしさを感じるだけだった。
一部上場企業に就職した。しかし、職場で同僚とそりが合わず、また上司からも忌み嫌われていた(被害妄想もあるが)。
これも私の人間関係のスキルがないせいもあった。
学生時代とはまた違った特殊な人間関係が私を戸惑わせた。
職場の人間関係でストレスを感じ始めるようになる。
睡眠障害も進行しはじめた。しかも学生時代のようにのんびりできないのだ。
明日仕事に行かなくてはいけない。そのためにはしっかり睡眠を取らなくてはいけないのにもかかわらず。
思えばうつ病の初期段階だったのかもしれない。
恋愛も失敗に終わった。仕事の失敗、職場の人間関係のトラブル、恋愛破局が、一気に私の心に押し寄せた。
倦怠感、不安感の中で生きるようになっていった。
気分の波に引っ張り回されるようになった。
恋愛が破れた今、生きる希望はないと感じた(恋愛中はホッとしていた。救われた気持ちだった。それだけに失った時の衝撃は計り知れない)
職場の人間関係もがんじがらめになり、人の妬みや陰口で心身共にすり減っていた。
学生時代のような負けん気も気力も湧かない自分に私が一番戸惑った。
精神的な健康を回復する場所も機会もなかった。
抑圧を溜め続けていた中.....
その後別の女性と結婚した。
早く自分で家庭を持って、親の家庭とは完全に離れて暮らしたかったから。
私にも家族ができたことは誇らしかったし、幸せも感じることができたが、同時に重圧ものしかかった。
ひょっとして私はしてはいけないことをしてしまったのかもしれない。
満足に自分を扱いきれないで、家族を養うなんてできるのか?
これが将来への不安、プレッシャーになってしまった。
そして子供が生まれた。
嬉しい反面、これもこれから大変だと感じた。
そして、父親のつくった家庭にだけは絶対したくない思いが強まった。
それすらトラウマが処理できていない当時の私には暗鬱な気持になった。
間違えて、あの悲惨な父親の家庭になってしまったらどうしようという不安、いや恐怖が私を襲った。
ついに私は本格的にうつ病になった。
何をする気も起きない、仕事に行きたくない、ずっと寝ていたい、胸騒ぎがする、動悸も激しい、不安でいたたまれない、汗が異常に全身びっしょりかく、気が晴れない、胃がもたれる、そして眠ることができない。
希死念慮に取り憑かれた。
そして、自殺未遂もした(家族のことを考えて未遂に終わったが)
もっともきつい時期だった。
なぜ生きなければならないのか。自分が好きではないのになぜ生きなければならないのだろう。
必死で努力してきたが、何のための人生なのか。思えば親の精神的奴隷になっていたのではないか?
親に認められようと頑張っても、報われたことはあったのか?
つまり、私にとって安楽平穏な場所は「自殺」しかなかった。
すべてがリセットされる。希死念慮というより強い自殺願望だった。
死ぬ機会があったら、いつでも死ねる。いま交通事故にあっても喜んで死のう。しかし半身不随で生き残るのだけは嫌だ。
家族に迷惑がかからない方法で死ぬのだ。
薬(オーバードーズ)は良くない、今は簡単に死ねないのだ。やっぱり首つりだろうか。
練炭自殺がいいか、他に何か自殺方法がないか。こんなことをぐるぐる頭の中で幾度も反芻していた。
いよいよ不眠症もひどくなり、つねに交感神経が暴発して私の眠りを妨げていた。
ひどい不眠症になると、寝ることすら、ベッドに向かうことすら恐怖になる。
とっくに自律神経失調症ともいうべき様々な症状に悩まされていたが、圧倒的に抑うつ状態の悪化は地獄だった。
父親がよく口癖にいっていた「だめ人間になるな」ということに必死の努力のかいもなく、私はなってしまったと思った。
私の努力で一番「ダメ人間」にならないようにしていたのに、そう(傍目では)なっている自分....
自己嫌悪と劣等感にも苦しめられた。
私はダメ人間、生きている価値がないと。
もうくるしい、いやだ、もうたくさんだ! 私は本当にどうにかなりそうだった。
むろん鬱病は努力家がなるものであって、ダメ人間では決してない。
むしろ頑張りすぎるし、優秀すぎるところもあり、感覚的にも鋭いからこそ病んでしまう。
だが、抑うつ状態のときには、自分をどうしても卑下してしまうものだ。
ここにいたってまで、父親に母親に、家族に申し訳がないとまで考えていた。
そんな父親の影響を抜け出すことができない自分に絶望した。
今はその考えからきっぱり縁を切ることができたが、あそこまで精神的感情的抑圧を受けて恨み骨髄にもかかわらず、
「申し訳ない」という発想は、顧みて異常だった。
精神的に父親、いいや「家」の奴隷にさせられていた証拠だろう。
自殺未遂を起こした時、かなり混乱していた。
当時もう精神科で治療を受けていたが、副作用でも苦しんでいた。
自殺未遂を起こしたのは、抗うつ剤の副作用か? 今ではそういう症例が多数報告されているから
社会的に認知されてきたが、当時はわからなかった。
だが、抗うつ剤服用による副作用で自殺未遂を起こしたのはあたっていると思う。
私は希死念慮があっても家族のことを考え、自殺はしない、しないと言い聞かせていた。
その一方で死にたい、死にたいと頭の中で渦巻いていたのだが。
自殺未遂の詳細については書かないでおきたい。
読まれる人に影響を与えるし、私がこのサイトで述べたいのは悲惨自慢ではないから。
こういう人生でも立ち直れるということを強くいいたいから。
大事にならずすんだが、私の家族に申し訳なさでいっぱいだった。子供はまだまだ小さいし、頼り切ることしかできない年齢だった。
何とかしないといけない。
妻も必死で支えてくれたが、最初はうつ病についての知識がなく、どう対処していいかわからなかったようだ。
私は入院をすることにした。
そこで薬も飲んだが、
認知療法をすることで、最悪の精神状態から脱することはできたのは、その後の鬱病改善にとって大きな一歩だったかもしれない。
そして精神医療の限界を私なりに感じた。
対症療法をやっていただけでは何にも変わらない、時間だけが過ぎていく。
このままいったら私はまたどん底に落ちる。
その時家族はどうなるんだろう?
妻は私と結婚して幸せであろうはずがない。なんとか幸せにしてやりたい、でもできない....
幼い子供は私がいなくなったら悲惨な境遇で暮らさなくちゃいけない。
父親が引き取ったらどうなるんだろう?
施設に育つ方がまだマシだろうか?
子供が生まれてきて良かったと思わせてやりたい、でも第二の私にこのままいくとなるかもしれない。
何とかして、家族のためにも立ち直ろう。
抑うつ状態のまま、催眠療法や前世療法を受けた。精神科の病院も変えて抗うつ剤を減薬することになった。これはこちらの下部に書いてあります。
何をするにも結果が出なくて、うつ病もきついまま年月が流れていました。
それでも仕事には行っていましたが、ついに再び休職しました。
もうダメかもしれないと
諦めていた時、ある掲示板に出会った。
そして、日記につながります。そこで素晴らしい出会いが連続しました。
その後私はうつ病を克服しました。
今も再発はしていません。
薬とも縁が切れています。
妻もホッと一安心していますし、子供もすくすくと成長しています。
二度と私が味わったような経験をさせたくない、もっとのびのびと感情が充足するように生きて欲しいと願っています。
嬉しいこと、楽しいことを素直に表現できて、泣く時はなく、そんな子供に育って欲しいです。
妻にも今まで苦労をかけた分、私自身が主体的に生きて感動をたくさんすることで、恩返しをできたらいいと思います。
とても鬱病闘病中は支えてもらいました。
人に振り回されず、過去にもとらわれることなく、自分の人生を歩めば、家族にも必ず良い影響が出ると信じています。
もし素晴らしい出会いがなければ、一生苦しみ続けて死んでいかなければいけなかったのでしょうか?
頼るものがいない家族を放り出して、死を選んでいたのでしょうか?
どこかで薬と折り合いをつけて、底辺で細々と暮らしていかなければいけなかったのでしょうか?
生活保護か生活支援を受けて生きなければいけなかったのでしょうか?
もう寄りつきたくもない父親に保護されて家族で生きなければいけなかったのでしょうか?(父はビジネス面ではかなりやり手の人間です)
どう考えても悲惨な人生を送り続けていたことでしょう。
私はどうでもよくて(死にたい気持があったから、しがらみが何にもなければ自殺していたかもしれません)、やっぱり残された家族のことが一番心残りでした。
だから、悲惨な未来予想図を変えることができたことは、非常に好運だったと思います。
人生は真っ暗闇ばかりではないと言うことです。
どんなどん底の人でも、希望は探せば必ずあります。
そしてうつ病は克服が可能なものだと強くいいたいです。
お読み頂きありがとうございました。